2008年9月30日火曜日

龍時の世界はなぜ失われたのか

野沢尚さんはアテネ五輪を見られなくて幸いだったかもしれない。もちろん、自殺という事実は悲劇ではあるけれども、日本代表サッカーの崩壊を見なくて済んだというのはある意味、よかったのではないかと思うのだ。

もし、NHK司馬遼太郎さんの遺志を汲んで「坂の上の雲」を映像化することがなければ、彼も「坂の上の雲」の脚本で悩むこともなく、自殺することもなかったかもしれない。もちろんこの脚本のみが原因とは言い切れないし、他に原因があったかもしれない。どんな状況でも野沢さんが自殺という結果は変わらなかったかもしれない。悲しいことではあるけれど。

ただ、この自殺によって「龍時」はモダンサッカーとの決定的齟齬をきたすことなく未完のまま終わったことも事実。「龍時01-02」の出版は2002/04。執筆はW杯日韓大会に向けて盛り上がっている最中に書きはじめられたものだろう。日本はトルシエが監督だった時代で、スペインサッカーの情報は玉乃淳に取材し、監修は中西哲生が行っている。3-4-1-2というトルシエの持ちこんだシステムをベースにして、サイドアタッカーの視点からサッカーを見せている。スペイン編では4-4-2のシステムも出てくるが、2トップ下というあってもなくてもいいポジションでありながら、日本では絶大な人気を誇るポジションをかなり多くの場面で書いている。アテネ五輪での日本代表も同じシステムだった。

2002年から現在まで続く急激なモダンサッカーの変化に日本はついていくことができなかった。シドニー五輪、W杯日韓大会で上昇気流を見せたはずだが、アテネ五輪、W杯ドイツ大会北京五輪では惨敗。アテネでは1勝をあげたものの、ドイツでは1勝もできず、北京では3連敗だった。

もし、「龍時」が続いていればアテネで成功を収めたという作中結果と日本代表の現状で大きな齟齬ができることになり、本格サッカー小説という看板も下ろさなくてはならなくなっていたかもしれない。

中田英寿小野伸二もアテネの時期を境にして輝きを失っていく。それはヨーロッパのサッカー理論の変化についていけなくなったからではないかと考える。中田英寿は最後までプランデッリの戦術が理解できず、イタリアからイングランドへと渡り、ポジションを失ってドイツを最後に引退。小野伸二もオランダから日本に帰国する。

中村俊輔松井大輔はモダンサッカーに馴染んではいるが、ステップアップという点では不満がある。セルティックで活躍する中村俊輔もFK一閃で沈めたマンチェスター・ユナイテッドミランからオファーは来なかった。昨シーズン善戦したバルセロナからも。

以前から言われてきたことではあるけれども、五輪代表でも優勝争いをする列強は、UEFA Champions Leagueでもノックアウトラウンドで優勝を争うクラブでレギュラーを張っている選手がポジションを占めていたし、ヨーロッパトップリーグのレギュラーを含めるとほぼ全員というレベルだった。それに引き替え、日本代表はJリーグでレギュラーという選手は多かったが、ヨーロッパトップリーグのレギュラーはいなかった。

フル代表でも同じこと。ヨーロッパ列強の高いレベルの中でプレーをし、なおかつ週2回の過密日程をもこなせる選手でレギュラーなのは中村俊輔と松井大輔、長谷部誠くらい。そして、重要なポジションに怪我人が出ても代役の選手がいないという選手層の薄さもある。

明るい未来に輝いていた龍時の世界とは違い、現在の日本代表はレギュラーメンバーの高齢化もあって暗いと言わざるをえない。これでは野沢さんが生きていたとしても筆を振るいにくいだろう。

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続きを書ける力量がある作家はいるはず。しかし、この作品の続きは誰も書けない。書いたとすれば現実とは乖離したファンタジーになってしまうから。それはサッカー漫画がありえない設定で描かれるのと同じことで、もう龍時の世界ではないのだ。

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「坂の上の雲」は司馬遼太郎さんが最期まで映像化を拒んだ作品。それを強引に映像化するNHKはこの点について遺族である福田みどりさんの承諾を得たとして故人の遺志は無視されることとなっている。舞台となる松山市も坂の上の雲まちづくりを推進し、坂の上の雲ミュージアムを遺族と揉めながらも立ち上げ、ロケを歓迎するというひどさ。本当に作品を読んだことがあるのかと思うくらい。

司馬遼太郎さんが映像化を拒み、野沢尚さんが自殺するほど悩んだとしても、お金のためには過去を振り返らないとすればそれはひどいこと。松山市は「松山」という言葉がひとつも出てこない上に田舎だと散々松山を馬鹿にしている「坊ちゃん」を素晴らしいと褒めちぎるくらいだからね。内容は考えていないのだろうね。

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