2008年8月16日土曜日

北京の敗戦の衝撃を協会はどう受け止めるべきか

北京五輪日本代表は3戦全敗。0勝という結果に終わった。得点は1、失点は3。

この敗戦に対して、総括することはもちろん、それを将来に向けて生かすべく策を取らなければならない。W杯ドイツ大会のような場当たり的で玉虫色の総括では意味がないのだ。そして、サッカーにかかわるすべてのファンが読めるものじゃなくてはならない。

協会がドイツW杯を総括(読売新聞)

大会の特徴として挙げたのが、1998、2002年の過去2大会で主流だったカウンター攻撃による得点の減少だった。

「ボールを失った瞬間に、相手に速攻をさせない守備をチームとして行っていた。前線も含め全選手に徹底的なハードワークが要求される」と理由を分析。「勝つチームには、何かを免除されるスーパースターはもはや存在しない」とし、ハードワークができる選手が当たり前だとした。

その中で、ボールを奪いに行く姿勢、緻密(ちみつ)な組織などの特徴を、優勝したイタリアやドイツを例に挙げた。リポートには記されていないが、より自陣に引いての確実な守備を志向した日本との大きな違いだったともいえる。


その積極的な守備を破る攻撃では、中長距離のシュートへの高い意識など多くの要素が挙げられている。
〈1〉カウンター攻撃を生むGKから前線への質の良いボールの供給
〈2〉速いテンポでしかも大きくボールを動かす
――など6項目が列挙される中で注目されたのは、モビリティー(機動性)。

「洗練された守備を相手にした場合、人が動かない限りボールも動かせてもらえない」として、アルゼンチンがパス24本をつないで挙げたゴールなどを例に、走りの量と質の重要性を指摘している。


これがドイツの総括の抜粋。モビリティが重要といいながらもまったく2年間で生かされなかったことになる。北京ではお世辞にも運動量が高いとは言えなかった。ミスを恐れて、動けないというほうが多かったように思う。

以前、このことに気付くのに2年遅かったと書いたが、2年も無策だったことを考えれば、世界との差は広がったと見るべきだろう。

北京「叩かれるべき条件。」(Number Web)

これはなぜ男子サッカーの全敗がどれだけの衝撃なのかを書いた杉山茂樹さんのコラム。

オリンピックでは国民の期待を裏切る敗退も当然ある。それは仕方ない。
しかし、負けたときには、もっと反省し、大いにがっかりすべきだ。
“応援”とは一線を画した客観的な検証。それなくして発展はないのだから。


サッカー男子は、4年前のアテネ同様、2戦2敗で3戦目を待たぬうちに脱落が決まった。メダル候補ともてはやされた前回は、にもかかわらず、反省、検証をおろそかにした。そしてメディアは、金メダル16個を獲得した五輪フィーバーのほとぼりが冷めるのを見計らうかのように「さあ次はドイツW杯だ!」と、これまでと同様の手法で煽った。今回の顛末はどうなるのか。協会、メディアはどんな対応をするのか。それにファンはどんな反応を示すのか。

多数のファンを抱える競技。

強化にそれなりの大金が投じられた競技。

選手がそれなりの収入を得ている競技。

成績が振るわなかったとき、以上の条件を満たしている競技は叩かれても仕方がないと僕は常々思っている。

サッカーはその代表格だ。「3戦3敗」は叩かれる対象になるが、サッカーメディアのこれまでの経緯を考えると、その成績は、サッカーを取り巻くメディアのヨイショ体質に相応しい結果に見える。


日本における野球の競技人口は約150万人(推定)。サッカーの競技人口は約80万人(日本サッカー協会)。

野球の半分だが、ファン層も含めると日本の二大スポーツと言ってもいい。

サッカーで3戦全敗で破れたということは、星野監督の野球が予選で全敗するような衝撃なのだ。

もし野球でそんなことが起これば、メディアは大騒ぎだろう。

しかし、サッカーでは惜しいというくらいの報道でしかなく、衝撃はなかったかのように受け止められている。

痛みを強く受け止めなければならないにもかかわらず。

またもや、玉虫色の総括を出すようなら、日本サッカー協会は完全な死に体になっていると言わざるをえない。

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